2004年11月20日

公案と坐禅は禅に必要か

鈴木大拙1870-1966
zaisetsu suzuki

「禅学入門」(6)最終回

<公案と坐禅について>
禅における臭味は公案と坐禅である。それ
らは、悟りへの道で、必ずや必要なもので
はない。しかし、これらは”禅”のプレゼ
ン(アピール)ツールとしては最適なので
ある。文字や形のないものは伝えることは
出来ない。バイブルも神様もいない禅にと
って「公案と坐禅」は最低限の譲歩表現な
のである。
だから、坐禅をすれば禅がわかる、などと
勘違いしてはいけない。要は、論理の壁を
破る、というただ一点なのだから。


<公案は眼であり、坐禅は脚である>
「公案と坐禅とはいずれも「禅」そのものの
婢僕(ひぼく)である。すなわち前者は眼で
あり、後者は脚である。」

<公案は決して役にたたないものでもない>
「公案は迷語でもなけれな頓知(とんち)で
もない。・・・公案に対して捨身にぶつかる
ことは、意想外にも従来意識されなかった、
心中の領域を開くのである。・・・(これに
よって)禅は、単なる知性以上のある物であ
るという確固不抜の信念が獲られるのである。」


<坐禅と公案は、禅のプレゼンテーション>
「禅が今なお栄えて、正統な唱導をみるのは、
ただ日本においてのみである。これは坐禅修行
と関連して公案を示す方式によるものであると
信ずる理由は多々存している。そしてこの方式
が人為的であるのは確かであるが、それは恐る
べき失敗から吾々多数を保護してくれる。
しかして禅の生命はこれを通じて持続されてい
るのである。
この方式をほどよく求める人々には、本当にす
ぐれたる師匠の下にあって、禅経験は可能であ
り、悟りが必ず得られるだろう。」

<坐禅と公案なんかなくても、悟ることは出来る>
「日本の禅を全滅から救ったものは公案であっ
た。・・・(しかし)ある人は言うであろう、
「・・・禅は経過・組織・訓練の臭味をすべて
除外して、単純絶対の経験にとどまるべきもの
であらねばならない。公案は無用の長物、皮相
な存在物、まったくの矛盾である」と。
理論的に言えば、あるいは絶対的見地からすれ
ば、この言は正しい。・・・吾々が公案あるい
は組織を口にするのは、それは単に禅の実際的
慣習方面を言う時においてのみである。」


panse280
posted at 10:33

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