2004年06月10日

禅とは何かー空論

鈴木大拙1870-1966
daisetsu suzuki

「禅とは何かー空論について」


日本の生活と社会を禅的に解釈することから離れて
は、日本美術の歴史はおろか、日本の道徳及び精神
の歴史も、その深い意義を失うだろう。

禅を理解するためには、大乗仏教の何たるかを知ら
なければならない。

大乗の中心思想たる空の理論を十分理解しなければ
、禅の秘密を深く掘り下げることは不可能である。


禅とは何か
禅と日本文化
新編 東洋的な見方
日本的霊性

「空」という言葉は、仏教では二つの意味をもつた
めに、混乱を招いている。まず、

一つは、全てのものは、永久性をもたない、
という意味であり、

もう一つは、
万物は「空(絶対者)」に根ざし、この根ざすとい
うことを十分理解する限り、それは実在する、とい
う意味であり、

禅においての「空」は、この意味である。

一切の個々の事物は、二様の相において存在する。
第一は個々のものとして、第二には”空”として。

一切万物は皆空、という般若波羅蜜(大智)哲学に
おける空は、禅における空と同じである。

ここで、問題になるのが、人間、という存在である。

人間が、空なる存在を自覚する、ということが仏教
の、そして禅の、目的なのである。

では、どうすれば空を自覚できるのだろうか。

俗な言葉でいえば、誠実であれ、無欲であれ、とい
うことに尽きる。

禅の哲学が、ワビやサビという貧困の美学に行き着
くのは、まさに、誠実と無欲の結果なのである。

貧困の美学というものが、この世の中で、最も豊饒
で究極の美である、ということは実に信じがたいこ
とである。

しかし、この理解なくして、禅はない。

禅が全ての宗教に勝るのは、絶対者(キリスト教で
あればキリスト)が、自分であり、他者(第三者)
ではない、ということにある。

禅においては、キリストと路傍の花は、同じ存在で
あり、キリストと自分も同じ存在である。
私が花を見る、ということは、私が花になる、とい
うことである。

リバティーやフリーダムの訳語としての自由には、
自ら主となる、という意味は、ない、と鈴木大拙氏
は云う。


自由のはたらきは、空の場所ではじめて可能である。

禅はまさに、自らを主とする自由の哲学である。

panse280
posted at 10:08

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