2004年05月30日
どこに詩があるか
萩原朔太郎1886-1942
Sakutaro Hagiwara
「どこに詩があるか」
「他人からの知識でなく、他人からの
学問でなく、真に「彼自らの思想」を
書いた人々の言葉は、どんな抽象的な
題材ーたとえば科学上の論説のような
ものーであっても、奇体なことには、必ず
そこに「詩」を感じさせる。
なぜといって、真に「彼自らのもの」と
なってしまった思想は、もはや概念でなく、
知識でなく、理屈でなく、実にそれ自らが
彼の生活における感情であり、尚進んで
は気質上の趣味でさえもあるから。
そして「詩」とは、つまりそうした者の
表現にほかならないのだから。」
萩原朔太郎の人生読本
Sakutaro Hagiwara
「どこに詩があるか」
「他人からの知識でなく、他人からの
学問でなく、真に「彼自らの思想」を
書いた人々の言葉は、どんな抽象的な
題材ーたとえば科学上の論説のような
ものーであっても、奇体なことには、必ず
そこに「詩」を感じさせる。
なぜといって、真に「彼自らのもの」と
なってしまった思想は、もはや概念でなく、
知識でなく、理屈でなく、実にそれ自らが
彼の生活における感情であり、尚進んで
は気質上の趣味でさえもあるから。
そして「詩」とは、つまりそうした者の
表現にほかならないのだから。」
萩原朔太郎の人生読本
<旅 上 >
「ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。」
「ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。」