2017年09月05日

平田篤胤

「思想の歴史6 」(10)
--東洋封建社会のモラル-
石田一良編

1970.5.25 再版発行(平凡社)

<平田篤胤>
「自分は宣長の死の翌々年に初めてその名前
を知り、古典の学にはいった」という篤胤の
手紙が1932年に発見されて、彼の本居入門の
主張は虚偽となった。

篤胤は秋田藩士の第4子として生まれ、20歳の
時脱藩して江戸にでた。27歳の時、宣長の書に
接して火がついたのである。

彼の57歳の「玉襷」には、「後鳥羽天皇が
承久の乱に関係して隠岐の島の配流せられた」
さいに、歌聖といわれる藤原家隆・定家らは
なんの反応もしなかった。こういう人たちが
「物のあはれ」をしっているとはおもえない。
と憤慨したのである。

宣長と篤胤は性格においても異なり、宣長が
静かにおちついた性格で、篤胤は燃え上がる
火のような性格だった。
しごとにかかると篤胤は20日も30日も寝ること
もなく没頭したと友人の服部中庸は語っている。

篤胤は神道を世界的な宗教にまでしたかった。
そのために、死後の世界を書きすぎて、世の
評判を落としたようにみえる。

宣長は下たる者が「おびただしく楽しく世を
わたらふ」ことのが理想であったが、この点
では篤胤も同じだった。


panse280
posted at 19:00

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