2017年02月19日

薩摩藩は頭にきた

「逆・日本史」(5)
(武士の時代)
樋口清之   
kiyoyuki higuchi 1909-1997

2007.5.25 第8刷発行(祥伝社)

<薩摩藩は頭にきた>
江戸時代後期、幕府はこの木曽三川(「木曽川」
「長良川」「揖斐川(いびがわ)」)の大規模治
水工事の命を薩摩藩に下し、薩摩藩は47人の武士
を美濃に送り込みました。

なぜ薩摩藩が遠く離れた九州の地から美濃の治水
工事を請け負うのか?
それは幕府が薩摩藩を恐れたからです。

彼らは、網の目のように入り組んでいた長良川と
揖斐川を見事に分離し、整流化させたのです。

当時、薩摩藩士達に対して、地元農民達が感謝のしる
しとして草鞋や食事を提供しようとしたところ、
幕府役人はこれらを許さなかった。
しまいには農民らが処罰されるようなってしまい、
薩摩藩士達は幕府に悪意を覚えた。
普請に派遣された藩士達は抗議としての死というより、
侮辱に耐えられず工事終了後切腹した。

幕府はこの事件を公表しなかった。薩摩人でさえこの
事件を知っている者がほとんどいなかった。

この工事で薩摩は大阪商人に莫大な借金をつくり
その利子は複利で増え、天文学的数字になり致命的
な財政破綻を起こしました。

明治維新で薩摩藩が主役となったのは、この恨みも
影響しています。

彼らの魂は、「薩摩四十七士の墓」として美濃の地
に眠っております。この歴史上の出来事がきっかけで、
今でも岐阜県と鹿児島県との間に文化交流があります。

panse280
posted at 08:21

トラックバックURL

コメントする

名前
 
  絵文字