2014年02月13日

死刑宣告文


「吉田松陰」(5)
中里介山 1885-1944
kaizan nakazato
1933.4.20 発行 (大菩薩峠刊行会)

<死刑宣告文>
宣告文には、異国船へ乗り込む科(とが)から
はじまり、「国家の御為を存じ立成候旨申立るなれ
ども、公儀を憚らず不敬の至、殊に大体蟄居中の
身分梅田源二郎へ面会致す段不届に付死罪申付る。
安政六年未十月二十七日」で終わっている。

これによって、十月二十七日午前十時、千住小塚の
原に於いて松蔭は斬首の刑にしょせられて、その
生涯を終わった。

「松蔭が刑せらるるの日尾寺と飯田は百方奔走して、
松蔭の死骸を穢多の手に渡さざらんように頼み、或いは
獄吏に会いて懇談し、辛うじて獄中死屍の処分に苦しむ
を名とし二十九日の午後小塚原の回向院で松蔭の死骸を
申受けるの約束を定めて、二人は桜田の藩邸に帰り
桂小五郎(木戸)と伊藤博文に事情を告げ、直ちに
去って大瓶と巨石とを贖い回向院へ行くと木戸も伊藤も
早や来合せていた、やがて幕府の役人共も来て、院の
西北方なる刀のためし場の傍の藁小屋から一つの四斗
桶を持って来て、「これが吉田氏の屍骸でござる」と
引き渡した。
四人が立ち会って蓋を開くと、髪は乱れて面にかぶさり
顔色はなお生けるが如くで、身体には一寸の衣も無い、
血は琳りと流れている。四人はその惨状を見て痛憤に
堪えなかった。飯田は髪を束ね、桂と尾寺が水をそそい
で血を洗い、首と胴とを接ぎ合わせようとしたところが、
幕府の役人が急にそれを遮りとめて、「重罪人の屍骸は
後日に至って検視があるかも知れぬ、その時、首が接
がれていては我等も軽からぬ咎をこうむる」と云った。
そこで飯田は黒羽二重の下衣を、桂は襦袢を脱いで
松蔭の死骸にかけ、伊藤は帯を解いてこれを結び首を
その上に置いて瓶(かめ)に納め、橋本左内の墓の左に
葬りその上へ巨石を置いた。その後数日、飯田と尾寺は
そこに碑を立てた。
正面に、松蔭二十一回猛士墓
右に、安政巳未十月念七日死
左に、吉田寅次郎行年三十歳
右側面に、吾今為国死、死不背君親、悠々天地事、
     鑑照在明神
左側面に、身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置か
     まし大和魂」

panse280
posted at 19:33

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