2012年03月16日
私の教育勅語
「不道徳教育講座」(26)
三島由紀夫 1925-1970
yukio mishima
2010.5.15 改版25版発行(角川文庫)
<私の教育勅語>
「大体日本には、西洋でいうようなおそろしい道徳
などという代物はないのです。この本質的に植物的
な人種は、現在、国をあげて動物のマネをしている
けれど、血なまぐさい動物の国の、動物の作った掟
なんかは、あんまり植物にはピッタリ来やしないの
です。
・・・
ところで植物にも殺意がある。私はそれを信じます。
それは動物よりも陰にこもった、より深い、より
大きい、より強い殺意かもしれない。
・・・
頭の貧しいお役人や教師たちが、いろいろと新道徳
を作り出そうとしますが、そこには、全然「殺意」
が、あるいは、「殺意に関する認識」が欠けている
から、まるきり使い物にならないのであります。
そこへ行くと軍人勅諭なんかは、殺意に立脚した
植物道徳の最後の光輝でしたが、もはや、そんな
過去の光輝を、二度と呼びかえすことはできません。
・・・
大切なことは、この殺意をしっかり認識するという
ことです。自殺の究極の形は、この地上に自分以外
の人類が死に絶えてしまい、たった一人で、どうし
ようもなくて、自殺する場合でしょうが、一人でも
他人がいてくれる限り、殺すことも殺されることも
できるので、それがつまりこの世に生きている仕合わ
せというものであり、生き甲斐というものであります。
これが私の教育勅語です。」
三島由紀夫 1925-1970
yukio mishima
2010.5.15 改版25版発行(角川文庫)
<私の教育勅語>
「大体日本には、西洋でいうようなおそろしい道徳
などという代物はないのです。この本質的に植物的
な人種は、現在、国をあげて動物のマネをしている
けれど、血なまぐさい動物の国の、動物の作った掟
なんかは、あんまり植物にはピッタリ来やしないの
です。
・・・
ところで植物にも殺意がある。私はそれを信じます。
それは動物よりも陰にこもった、より深い、より
大きい、より強い殺意かもしれない。
・・・
頭の貧しいお役人や教師たちが、いろいろと新道徳
を作り出そうとしますが、そこには、全然「殺意」
が、あるいは、「殺意に関する認識」が欠けている
から、まるきり使い物にならないのであります。
そこへ行くと軍人勅諭なんかは、殺意に立脚した
植物道徳の最後の光輝でしたが、もはや、そんな
過去の光輝を、二度と呼びかえすことはできません。
・・・
大切なことは、この殺意をしっかり認識するという
ことです。自殺の究極の形は、この地上に自分以外
の人類が死に絶えてしまい、たった一人で、どうし
ようもなくて、自殺する場合でしょうが、一人でも
他人がいてくれる限り、殺すことも殺されることも
できるので、それがつまりこの世に生きている仕合わ
せというものであり、生き甲斐というものであります。
これが私の教育勅語です。」