2011年05月18日

小説とはどんな風に書いても好いのだ

「評伝森鴎外」(6)

山室静 1906-2000
shizuka yamamuro

1999.4.10 第1刷発行(講談社)

<小説とはどんな風に書いても好いのだ>
「追儺」では「僕は・・・小説というもの
は何をどんな風に書いても好いものだと断案
を下す」と書いた。
「小説の中に気ままに感想や議論をもちこんだり、
描写を極めて恣意的に展開させたり打ち切ったり
しながら、ふしぎと微妙なところで作品をみごと
にまとめている。作家鴎外の自在さである。
小説という形式は、彼によってどれだけ屈伸性を
まし、可能性を広げられたかしれないのだ。」

<予が立場>
「私の心持を何といふ詞で言ひあらはしたら
好いかと云ふと、レジグナチオン(諦念)だと
云って宜しいやうです。私は文芸ばかりではない。
世の中のどの方面に於ても此心持です」(鴎外)

と書いた明治42年、47歳の鴎外は山県公に贈る
「古稀庵記」のような幇間的文章を書いている
のである。

「かのように」は唐木順三氏によると、幸徳事件
以来思想問題に頭を悩ましていた山県公に献策
する意図で書かれた贈られた、多分に政策的な
ものであったという。
「かのように」の云うところは、「神話は歴史では
ないが歴史であるかのように一応扱って、天皇制
や「皇室の藩屏」たる自分の地位はそっとしておき、
科学を進歩させることで、徐々に社会を改めて行こ
うということであるらしい。」

panse280
posted at 23:09

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