2011年05月13日

最も美しい日本語を書いた人

「評伝森鴎外」(1)

山室静 1906-2000
shizuka yamamuro

1999.4.10 第1刷発行(講談社)

<美しい日本語を書く、傲慢な男>
漱石と鴎外、日本文学の双塔である。
鴎外といえば、最も美しい日本語を書いた
人、そして、海軍軍医の高木兼寛の度々の
箴言にかかわらず、陸軍の麦飯を拒否し
白米を常用し、4万の陸軍兵士を脚気に
至らしめた「信じられない傲慢さ」を持った
男、として評されている。

<エリートの左遷>
5歳で漢籍の素読を始め、8歳でオランダ
文典を学び、10歳でドイツを学び、時の
有名人で親戚の西周宅で過ごし、年齢を
偽って12歳で、第一大学区医学校予科(後の
東京大学医学部)に入学し、19歳で卒業。
22歳でドイツに留学し、26歳で帰国。
彼を追って、エリスが来日するも、会わ
ずに本国へ返す。
29歳で医学博士の学位を受ける。その年、
坪内逍遙と論争、他にも石橋忍月、外山正一
など、数々の論争を展開するが翌年には
仕事の関係か、その活動は沈滞する。
31歳で軍医学校長心得になり、翌年、日清
戦争が始まり、鴎外は第二軍兵站軍医長と
して出征する。33歳で軍医学校長になる。
34歳で幸田露伴、斉藤緑雨とともに「めざま
し草」を創刊。

文芸で有名になるにつれて、軍、医学関係
の風当たりが厳しくなる。

「予が医学を以て相交わる人は、アレは小説家だ
から与に医学を談ずるには足らないと云い、予が
官職を以て相対する人は、アレは小説家だから
重事を托するには足らない」と云われ、疎んじら
れ左遷(37歳-40歳)されるのである。

<年譜(1)>
文久2年,1862,2.17島根県津和野に生まれる。

慶応3年、鴎外5歳、漢籍の素読を始めた。

明治5年、鴎外10歳、父は親戚の西周のすすめ
で上京、神田小川町の西周邸に預けられる。
当時、西周は明治天皇に博物学、心理学、英国史
等を進講していた。

明治14年、鴎外19歳、東京大学医学部卒業、
最年少だった。

明治17年、鴎外22歳、ドイツへ留学。
明治21年、鴎外26歳、帰国。

明治22年、鴎外27歳、登志子と結婚。
明治23年、鴎外28歳、登志子と離婚。

明治24年、鴎外29歳、坪内逍遙と論争。

panse280
posted at 19:53

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