2010年04月25日

「本居宣長」をめぐって(小林秀雄・江藤淳)

「本居宣長(下)」(15)
小林秀雄
hideo kobayashi
1902-1983
平成4.5.25.発行(新潮社)

---「本居宣長」をめぐって----
小林秀雄・江藤淳

<森鴎外>
江藤:「「本居宣長」を読みながら、しばしば
鴎外の「渋江抽齋」を思い出した・・・
鴎外がなぜ渋江抽齋というような、ほとんど
世間に知られていない考証家に惹かれたのかと
いうことを考えてみますと、
・・・
結局鴎外が自分の六十年近い生涯を振り返った
とき、本当の学問をしていたのは抽齋のほうで、
自分ではなかったという痛恨を禁じ得なかった
からではないか、と思うようになりました。
自分は、努力を重ねて大変がんばったけれども、
それにもかかわらず喜びは稀薄であった、それに
ひきかえ抽齋よ、君は幸福であったなあ、という
嘆声が聞こえて来るような気がしたのです。」

<ベルグソン>
小林:「私は若いころから、ベルグソンの影響を
大変受けて来た。大体言葉というものの問題に
初めて目を開かれたのもベルグソンなのです。
・・・
自分(ベルグソン)の説くところは、徹底した
二元論である。実在論も観念論も学問としては
行き過ぎだ、と自分は思う。その点では、自分の
哲学は常識の立場に立つと言っていい。常識は、
実在論にも観念論にも偏しない、中間の道を歩い
ている。」

「「古事記伝」には、ベルグソンが行った哲学の
革新を思わせるものがあるのですよ。
・・・
「古事記伝」と、ベルグソンの哲学の革新との間
には本質的なアナロジーがあるのを、私は悟った。」

panse280
posted at 19:13

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