2010年01月14日

乃木希典と山鹿素行

「殉死」
2009.8.10新装初版(文春文庫)

司馬遼太郎1923-1996
ryotarou shiba

<乃木希典と山鹿素行>
「筆者(司馬)は乃木ファンではない。」

河上徹太郎は「吉田松蔭」の中で、司馬遼太郎
氏から言われた言葉がいつも頭から離れなかった
という。それは「どうも素行(山鹿素行)という
人間が好きになれない、といった口ぶりだった。」

乃木希典は陽明学派の末端にいた。

陽明学学祖は中江藤樹である。
その後、熊沢蕃山、山鹿素行と続き、
江戸末期にはこの学派の巨魁として
大塩平八郎が出現した。
大塩平八郎の「洗心洞箚記(さっき)」
は西郷隆盛が、死に至るまで愛読した本であった。

乃木希典のこの道統は、これの縁族である
吉田松陰と玉木文之進から出ているという
意味で長州における陽明風山鹿学派のもっとも
正統な系譜を継いでいるであろう。

松蔭の刑死後、希典は松蔭の叔父であり
師匠であった玉木文之進のもとにあずけられ、
唯一の住み込み弟子として薫育されている。

三十九歳で渡独し、四十歳で帰朝してからの
彼が反覆熟読した書物は、山鹿素行の諸著述
以外になかったといっていい。そして一冊の
本に出会う、「中朝事実」である。
つてを介してそれを閲覧し、ついに借用し、
数ヶ月かかってそれを手写した。
写しおえると、人にも与えた。
内容は皇室絶対主義思想であり、幕府のもとで
は刊行不可能な書だった。

陸軍内部では「乃木閣下は、書物といえば生涯
「中朝事実」しか読まなかったのではないか」と
ささやかれた。

「この道統には、大石内蔵助と吉田松陰、そして
西郷隆盛がいる」と希典は五十代のころ、その
副官に語ったことがある。

九月十一日、死の前々日、乃木は皇居に向かった。
裕仁親王(後の昭和天皇)に乃木自身が手写した
「中朝事実(山鹿素行)」を差し出され、五十分
以上、講義をされた。

panse280
posted at 20:30

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