2009年12月18日

大衆化社会における芸術家は何をすべきか

林房雄1903-1975
fusao hayashi
三島由紀夫、1925-1970
yukio mishima

「対話・日本人論」(1)
昭和41(1966)年10月20日初版(番町書房)

<大衆化社会における芸術家は何をすべきか>
(三島)
「いまは西洋もクソもないですね。アメリカですら
ないですね。つまり新しい時代の新しい大衆社会化
の現象が起こっている。そういうことに対抗して、
日本とか日本人を考えるのであって、そういう
ナショナリズムというのは、いわゆる普通の意味の、
十九世紀以前のナショナリズムとか、民族的な国家
におけるナショナリズムとは、ぜんぜん性質が違う
のではありませんかね。」
(林)
「私は、大衆社会化に対抗出来るものは民族だと思う
のです。
・・・
私は、日本では、どの時代でも民族主義が俗衆化の
泥沼から国民を救い出し、再生させる力になるので
はないかと思っています。」
(三島)
「・・・大衆社会というのは、逆に言えば一人一人が
孤独になる社会で、それが全部等価になって、芸術家
も一つの歯車にすぎない。・・・
大衆社会化に対抗するには、やはり個対全体という形
でなくて、向こうが量でくるなら質だという考えでは
なくて、量でくるなら、還元された別の形の量、つま
り、縦の量ですね、横の量ではなく縦の量、そういう
もので、ある意味で集合的なものがだんだんほしく
なってくる。その場合に、僕の契機になったのは
「ことば」ですね。
・・・
文学者の仕事は、ことばを通じて「縦の量」というも
のに到達するのだと。それは林さんのおっしゃった
伝統とか、民族という問題とつながってくる。
・・・
ことばは質だけではなくて、ことば自体のなかに、
一つのいわゆる、集合的無意識も眠っているだろうし、
それが日本語の問題になってくるのですが、政治家は、
結局ことばというものは絶対にわからない。
文学の仕事というものは、どうも僕は、衆を頼むと
いうようなところが、どこかにあるような気がする
のです。衆を頼むというのは、悪い意味ではないの
です。つまり、いまの大衆社会の人間に対抗するには、
別の衆を頼まなければならない。その衆とはなんで
あろうか。やはりそれは、自分だけの問題ではないと
思うのです。そうすると自分だけのことに文学者が
関心をもって、ただ近代的自我の模造品のようなもの
を書いていたのでは、大衆社会に、なんにも対抗する
ものは出てこないという・・・。」

panse280
posted at 21:08

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