2009年03月12日
自然を知り尽くすことができないわけ
ショーペンハウアー 1788-1860
arthur schopenhauer
「ショウペンハウアー全集(12)」(278)
--「余録と補遺:哲学小品集 第二巻」--(9)
--Parerga und Paralipomena--
<自然を知り尽くすことができないわけ>
自然がきわめがたいのは、因果の形式が無縁
である領域において原因・結果の連鎖を追求する
からである。
「事物の内的本質は根拠律には無縁である。それは
物自体であり、純粋な意志である。」
(第六十五節)
<あらゆる事物の根本性格は無常というにある>
「もしも自然自身の核心が無時間的なもの、不壊の
もの、現象とはまるで異質の物自体、あらゆる自然
的存在とは異質な形而上学的なものでなかったら、
どうして自然は倦むこともなく、無限の時間を通じて、
諸形態の維持、諸個体の更新、生命過程の無数の
反復をやりとげることができるであろうか。
これはわれわれの内なる、また一切のものの内なる
意志なのである。
それぞれの生命体のうちに世界の全中心がある。」
(第六十六節)
arthur schopenhauer
「ショウペンハウアー全集(12)」(278)
--「余録と補遺:哲学小品集 第二巻」--(9)
--Parerga und Paralipomena--
<自然を知り尽くすことができないわけ>
自然がきわめがたいのは、因果の形式が無縁
である領域において原因・結果の連鎖を追求する
からである。
「事物の内的本質は根拠律には無縁である。それは
物自体であり、純粋な意志である。」
(第六十五節)
<あらゆる事物の根本性格は無常というにある>
「もしも自然自身の核心が無時間的なもの、不壊の
もの、現象とはまるで異質の物自体、あらゆる自然
的存在とは異質な形而上学的なものでなかったら、
どうして自然は倦むこともなく、無限の時間を通じて、
諸形態の維持、諸個体の更新、生命過程の無数の
反復をやりとげることができるであろうか。
これはわれわれの内なる、また一切のものの内なる
意志なのである。
それぞれの生命体のうちに世界の全中心がある。」
(第六十六節)