2008年12月22日
カント哲学の究極の思惟
ショーペンハウアー 1788-1860
arthur schopenhauer
「ショウペンハウアー全集(10)」(205)
--「余録と補遺:哲学小品集 第一巻」--(15)
--Parerga und Paralipomena--
<余の哲学について>
「おそらくいかなる哲学体系も余の場合ほど簡単で、
かつわずかな要素からできているものはない。」
「真実の言葉はもともと簡単なのだ。」
「余の諸原理はたいていは推論の連鎖にではなく、
直接的に直観的世界そのものに、基づいている。」
「余の哲学的思索の独特な性格として、いかなる場合
にも事物の根底にまで到達しようと努めるということ
があげられる。・・・
そしてついにはあらゆる概念と命題の究極的基礎
(それは必ず直観される)をあるがままにはっきりと
見据える。」
「人類は余からいろいろと学んだ事を決して忘れない
だろう。」
「余の哲学はカント哲学の「究極の思惟」である。」
arthur schopenhauer
「ショウペンハウアー全集(10)」(205)
--「余録と補遺:哲学小品集 第一巻」--(15)
--Parerga und Paralipomena--
<余の哲学について>
「おそらくいかなる哲学体系も余の場合ほど簡単で、
かつわずかな要素からできているものはない。」
「真実の言葉はもともと簡単なのだ。」
「余の諸原理はたいていは推論の連鎖にではなく、
直接的に直観的世界そのものに、基づいている。」
「余の哲学的思索の独特な性格として、いかなる場合
にも事物の根底にまで到達しようと努めるということ
があげられる。・・・
そしてついにはあらゆる概念と命題の究極的基礎
(それは必ず直観される)をあるがままにはっきりと
見据える。」
「人類は余からいろいろと学んだ事を決して忘れない
だろう。」
「余の哲学はカント哲学の「究極の思惟」である。」