2008年11月11日

新教と旧教(カトリック)

ショーペンハウアー 1788-1860
arthur schopenhauer

「ショウペンハウアー全集(7)」(167)
--「意志と表象としての世界(全四巻)」の第四巻補足--(37)

<新教と旧教(カトリック)>
「新教は、禁欲及びその要点である独身生活の功徳を抹殺
することによって、本来キリスト教の最も重要な核心を放棄
してしまった。・・・新教が平板な合理主義、現代のペラギ
ウス主義に移りつつあることによって暴露されてきた。
即ち、このペラギウス主義は究極のところ、この世でおもしろ
おかしく暮らしていけるように(もちろんうまくゆくはずは
なかろうが)父なる愛の神が世界を創りたもうたと説くので
あって、この父なる神は、われわれがいささかでもその御旨
に添うように努めさえすれば、その後もこの浮世よりははるか
に結構な世界を心配してくださるだろう、というわけである。
これはいかにも、結婚して安穏に暮らしている、頭の開けた
牧師連中には結構な宗教であろう。しかしこれはキリスト教
ではないのだ。
キリスト教が説いているのは、人類はその生存そのものに
よって重い負い目を担っており、この生存からの救済を
あえぎ求めているのであるが、それはただきわめて困難な
犠牲とおのれ自身の否定、すなわち人間の本性の全面的な
転換によってのみ達成しうるのだ、ということである。
・・・・
(ルターの潔白の精神は)善意からとはいえ、熱中するあま
りいささかやりすぎてしまった。すなわち、キリスト教の
心臓ともいうべき禁欲主義の原則に攻撃を加えたのである。
行き過ぎというのは、禁欲主義の原則が出ていってしまえば、
すぐその後に居座るのは、いやでも楽観主義の原則だからで
ある。しかしながらこの楽観主義こそ、あらゆる真理に道を
ふさぐ根本的な誤謬である。
こういうわけで、旧教はキリスト教の破廉恥きわまる悪用で
あり、新教はその堕落であって、一般にキリスト教もまた、
およそ高貴にして崇高かつ偉大なものが人間のあいだで生き
のびねばならぬとなると直ちにこれを襲うかの運命を受け
ねばならなかったもののように私には思われる。」

(第四十八章 生への意志の否定に関する学説について)

panse280
posted at 20:44

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