2008年10月16日
男女の友情は可能か?
ショーペンハウアー 1788-1860
arthur schopenhauer
「ショウペンハウアー全集(7)」(141)
--「意志と表象としての世界(全四巻)」の第四巻補足--(11)
<男女の友情は可能か?>
「教養のある男女のあいだに、彼らの志操や性格、心ばえ
の一致によって性愛を交えず友情が成立することがある。
いやそれどころか、彼らのあいだには性愛という点では
ある種の嫌悪が存在することがあるが、その原因は次の
点に求めるべきである。
すなわち、彼らが子供を生むとしたら、その子供は肉体的
か精神的に不調和な性質をもつだろうということ、要する
に、彼の生存と性質が、種属のうちに具現されている生へ
の意志の目的に適応しないだろうということである。」
<本能>
エゴイズムは個人に根ざしている。種(人類)の目的と
個の目的は同じではない。そこで自然は種の目的を個人
の目的のように錯覚をおこさせるようにした。それが
本能といわれるものである。
(第44章 性愛の形而上学)
arthur schopenhauer
「ショウペンハウアー全集(7)」(141)
--「意志と表象としての世界(全四巻)」の第四巻補足--(11)
<男女の友情は可能か?>
「教養のある男女のあいだに、彼らの志操や性格、心ばえ
の一致によって性愛を交えず友情が成立することがある。
いやそれどころか、彼らのあいだには性愛という点では
ある種の嫌悪が存在することがあるが、その原因は次の
点に求めるべきである。
すなわち、彼らが子供を生むとしたら、その子供は肉体的
か精神的に不調和な性質をもつだろうということ、要する
に、彼の生存と性質が、種属のうちに具現されている生へ
の意志の目的に適応しないだろうということである。」
<本能>
エゴイズムは個人に根ざしている。種(人類)の目的と
個の目的は同じではない。そこで自然は種の目的を個人
の目的のように錯覚をおこさせるようにした。それが
本能といわれるものである。
(第44章 性愛の形而上学)