2008年07月26日

親鸞への道

ショーペンハウアー 1788-1860
arthur schopenhauer

「ショウペンハウアー全集(3)」(61)
--「意志と表象としての世界」--

<第四巻 意志としての世界の第二考察>
--自己認識に達した場合、生への意志の肯定と否定--

<本当に悟った人はいない?>
禅に「悟り」というものがある。それはショウペン
ハウアー用語では「生への意志を否定できた人」な
のだが、それらの境地とは実は単なる出発点にすぎ
ないのだ。
つまり、身体(生きようとする意志の客体)がある
かぎり、意欲という誘惑があるからである。
だから、悟った人や生への意志を否定した人たちは
いわゆる「禁欲」をして、意欲への誘惑、と日々、
戦わざるを得ないのである。つまり悟ったからと
いって、安住できるわけではないのである。
なぜ人類の本質である、生きる意志を否定するのか
は第七十節に説かれるが、つまり、自由というもの
が意志から生ずるのはなく、認識から生ずるからで
ある。そしてその認識とは、意志の否定からしか生
まれない純粋認識あるいは悟りと言われるものなの
である。

<悟りへの道>
道は二つある。
第一の道は、認識だけで到達する天才の道
第二の道は、苦悩から至る一般人の道

第二の道を、見事に表現したものがゲーテ作の
「ファウスト」である。

余談:
<第二の道はまさに親鸞の「歎異抄」>
つまり、悪人ほど苦悩は多いのである。
そうであれば、悪人ほど悟りに至る確率は高くなる
のである。

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」

(善人が極楽往生できるのなら、悪人ができないは
ずが無い)」(親鸞)

panse280
posted at 08:55

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