2008年07月17日
意志の否定--生との矛盾を超えて
ショーペンハウアー 1788-1860
arthur schopenhauer
「ショウペンハウアー全集(3)」(53)
--「意志と表象としての世界」--
<第四巻 意志としての世界の第二考察>
--自己認識に達した場合、生への意志の肯定と否定--
利己主義者にとっておのれ自身の人格だけが身近で
あるように、物自体の本質を洞察した者(純粋認識
を得た者)は、世界の苦しみが身近になる。
<意志の否定--生との矛盾を超えて>
「彼の意志は向きを変え、現象の中におのれを映して
いるおのれ自身の本質をもはや肯定せず、それを否定
するのである。このことがおのれを告げ知らす現象こそ、
徳から禁欲への移り行きなのである。
つまり彼にとっては、他の人々をおのれ自身に等しい
ものとして愛し、おのれのために成すのと同じ程の事を
他の人々の為に成す事では、もはや十分ではない。
むしろ彼の内面には、それの表現が彼自身の現象である
ような本質、つまり生への意志、すなわち悲惨に満ちた
ものとして認識されたあの世界の核心であり本質である
ものに対する嫌悪が生じているのである。
こういう訳であるから、彼はほかならぬ彼のなかに
現象していて、おのれの肉体によってすでに表現されて
いるこの本質を否認するのである。
そこで彼の行いは今やおのれの現象の嘘を非難すること
になり、おのれの現象と明らさまな矛盾におちいるの
である。
本質的に意志の現象以外のなにものでもない
ものとして、彼はおよそなんらかのものを意欲すること
を止めてしまい、おのれの意志をおよそなんらかのもの
に依存させないように気をつけ、あらゆる事物に対する
最大の無関心さをおのれのうちに固めようと努める。
・・・
いかなる条件のもとでも彼は性欲を満足させようとは
思わない。自発的であって完全な純潔は禁欲すなわち
生への意志の否定の第一歩である。」
(第六十八節)
arthur schopenhauer
「ショウペンハウアー全集(3)」(53)
--「意志と表象としての世界」--
<第四巻 意志としての世界の第二考察>
--自己認識に達した場合、生への意志の肯定と否定--
利己主義者にとっておのれ自身の人格だけが身近で
あるように、物自体の本質を洞察した者(純粋認識
を得た者)は、世界の苦しみが身近になる。
<意志の否定--生との矛盾を超えて>
「彼の意志は向きを変え、現象の中におのれを映して
いるおのれ自身の本質をもはや肯定せず、それを否定
するのである。このことがおのれを告げ知らす現象こそ、
徳から禁欲への移り行きなのである。
つまり彼にとっては、他の人々をおのれ自身に等しい
ものとして愛し、おのれのために成すのと同じ程の事を
他の人々の為に成す事では、もはや十分ではない。
むしろ彼の内面には、それの表現が彼自身の現象である
ような本質、つまり生への意志、すなわち悲惨に満ちた
ものとして認識されたあの世界の核心であり本質である
ものに対する嫌悪が生じているのである。
こういう訳であるから、彼はほかならぬ彼のなかに
現象していて、おのれの肉体によってすでに表現されて
いるこの本質を否認するのである。
そこで彼の行いは今やおのれの現象の嘘を非難すること
になり、おのれの現象と明らさまな矛盾におちいるの
である。
本質的に意志の現象以外のなにものでもない
ものとして、彼はおよそなんらかのものを意欲すること
を止めてしまい、おのれの意志をおよそなんらかのもの
に依存させないように気をつけ、あらゆる事物に対する
最大の無関心さをおのれのうちに固めようと努める。
・・・
いかなる条件のもとでも彼は性欲を満足させようとは
思わない。自発的であって完全な純潔は禁欲すなわち
生への意志の否定の第一歩である。」
(第六十八節)