2008年07月09日

正義の味方が死を賭ける時

ショーペンハウアー 1788-1860
arthur schopenhauer

「ショウペンハウアー全集(3)」(45)
--「意志と表象としての世界」--

<第四巻 意志としての世界の第二考察>
--自己認識に達した場合、生への意志の肯定と否定--

<正義の味方が死を賭ける時>
ある人がひどい乱暴をただ目撃者として立ち会った
だけで、立腹し、助け手もないままにおのれ自身の
命を賭けるのを目にする事がある。

あらゆる自愛の境界を越え出て人間を駆り立てて
いく憤懣の念は、次のような最も深い意識に由来する。

「そういう人間は生への全面的な意志そのもので
あり、かかる意志は、あらゆる時をとおしてあらゆる
もののなかに現象するものであり、したがってその
意志には、現在もきわめて隔たった将来も同等の
仕方で所属していて無関係ではありえないという
意識である。

この意志を肯定しながらも、彼の望むところは、その
意志の本質が上演されている演劇に中に、あのように
途方もない怪物がもう二度と現れてこないということ
である。そこで彼は、死の恐怖さえも復讐する者を
おびやかさぬのであるから、それに対するいかなる
防壁もない復讐を実例とすることによって、将来の
無法者のすべてを威嚇しようとしたのである。

この場合、生への意志はおのれをまだ肯定しては
いるものの、もはや個別的な現象、個体には執着して
おらず、人間のイデアを包含するものとなっており、
このイデアの現象をそのような途方もない言語道断
な怪物から汚されないままに保持しようとする。

これこそまれで、意義深く、それどころか崇高な
性格の特徴である。ひとりひとりの者は、永遠の
正しさのもともとの本質をまだ見損なってはいるが、
その片腕になろうと努めて、この性格の特徴をとお
しておのれを犠牲にささげるのである。」
(第六十四節)

(例)
このまえの戦争のとき、フランス人の将軍達を
食事に招き、将軍達にも自分にも同時に毒を盛った
あのスペイン人の司教もこれにあたる。


panse280
posted at 20:54

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