2008年06月25日

ものが見えるということ

ショーペンハウアー 1788-1860
arthur schopenhauer

「ショウペンハウアー全集(3)」(31)
--「意志と表象としての世界」--

<第三巻 表象としての世界の第二考察>
--根拠律に依存しない表象、プラトンのイデア、芸術の客観--

<ものが見えるということ>
「イデアは個人そのものによってはけっして認識
されない。一切の意欲と一切の個人性とを越え、
認識作用の純粋な主観に高まった人によってのみ
認識される。それゆえイデアに到達できるのは
ただ天才だけである。
ついで、たいていは天才の作品を機縁におのれの
純粋な認識力を高揚させ、天才的な気分になった
人だけである。」
(第四十九節)

「ものが見える」ということは、習うことも
学ぶこともできない。しかし「ものが見える」よう
になるチャンスはある。それは、
「天才の作品を機縁におのれの純粋な認識力を高揚
させ、天才的な気分」になることである。
認識力を高揚させるには、貧でなければならない。


参考:<貧とはなにか>(鈴木大拙)
「わびの真意は「貧困」、すなわち消極的に
いえば「時流の社会のうちに、またそれと一緒
に、おらぬ」ということである。
貧しいということ、すなわち世間的な事物(冨・
力・名)に頼っていないこと、しかも、その人
の心中には、なにか時代や社会的地位を超えた、
最高の価値をもつものの存在を感じること、
これがわびを本質的に組成するものである。」

panse280
posted at 22:59

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