2008年06月20日

崇高

ショーペンハウアー 1788-1860
arthur schopenhauer

「ショウペンハウアー全集(3)」(26)
--「意志と表象としての世界」--

<第三巻 表象としての世界の第二考察>
--根拠律に依存しない表象、プラトンのイデア、芸術の客観--

<崇高--低い度合いの「崇高」の実例>
雲一つない空の下、地平線は果てしなく広がり、
樹木も植物も微動だにしない大気の中、動物、人間の
姿はなく、流れる水もない、深い静寂と寂寥(ものさびしい
さま)の辺地に身を置いたとしよう。
こうした環境はあらゆる意欲と不如意(思いのままにならない)
とを振り切り、厳粛であれ、観照せよ、と呼びかける。
人は、このような環境に対して、崇高なもの、という感覚
を覚えるのである。
というのもそいういう環境は、絶え間のない努力と達成とを
必要とする意志に対して、いかなる客観をも提供しないため、
純粋な観照をするしかないからである。
「純粋な観照の能力がない者は、恥ずべき侮辱感をいだき
ながら、意志の無為の空虚さや退屈の苦悩に身をゆだねる
ことになるであろう。」
(第三十九節、私訳)

上述の環境において、更に、植物もなく、岩しかなければ
「崇高」の度合いが高まる。それに加えて、自然の脅威、
例えば、暴風雨、暗黒・・等があれば申し分ない。

「美しいものにおいては、純粋な認識作用が戦わずして
優位を占めた。・・・・
これに反して崇高なものの場合、純粋な認識作用のこの
状態は、同じ客観が意志に対してもつ不利と認められた
もろもろの関わり合いから意識的に力づくで引き離すこと
により、はじめて獲得される。すなわち意志と意志に関わ
り合う認識とを意識を道づれにして自由に越えて高まるこ
とにより、はじめて獲得される。この高まりは、意識で
もって獲得されなければならない。」
(第三十九節)

panse280
posted at 22:02

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