2008年05月29日

意志と表象としての世界

ショーペンハウアー 1788-1860
arthur schopenhauer

「ショウペンハウアー全集(2)」(4)
--「意志と表象としての世界」--

<内容目次>
(「世界の名著 続10 ショーペンハウアー」による目次)
第一巻 表象としての世界の第一考察
--根拠の原理に従う表象、すなわち経験と科学との客観--

第一節
世界はわたしの表象である。
第二節
主観と客観は直かに境界を接している。
第三節
根拠の原理の一形態としての時間。
世界は夢に似て、マーヤーのヴェールに蔽われている。
第四節
物質とは働きであり、因果性である。
直観能力としての悟性。
第五節
外界の実在性に関するばかげた論争。
夢と実生活との間に明確な目じるしはあるだろうか。
第六節
身体は直接の客観である。すべての動物は悟性をもち、
動機に基づいた運動をするが、理性をもつのは人間の
みである。理性を惑わすのは誤謬、悟性を惑わすのは
仮象である。とくに仮象の実例。
第七節
われわれの哲学は主観や客観を起点とせず、表象を
起点としている。全世界の存在は最初の認識する生物
の出現に依存している。
シェーリング批判、唯物論批判、フィヒテ批判。
第八節
理性は人間に思慮を与えるとともに誤謬をもたらす。
人間と動物の相違。言葉、行動。
第九節
概念の範囲と組み合わせ。論理学について。
第十節
理性が知と科学を基礎づける。
第十一節
感情について。
第十二節
理性は認識を確実にし、伝達を可能にするが、理性は
悟性の直観的な活動の障害にあることがある。
第十三節
笑いについて。
第十四節
一般に科学は推論や証明ではなしに、直観的な明証を
土台にしている。
第十五節
数学も論理的な証明にではなく、直観的な明証に基づく。
ユークリッド批判。理性を惑わす誤謬の実例。哲学とは
世界の忠実な模写であるというベーコンの言葉。
第十六節
カントの実践理性への疑問。理性は善に結びつくだけで
はなく悪にも結びつく。ストアの倫理学吟味。


第二巻 意志としての世界の第一考察
--すなわち意志の客観化 --

第十七節
事物の本質には外から近づくことはできない。すなわち
原因論的な説明の及びうる範囲。
第十八節
身体と意志とは一体であり、意志の認識はどこまでも
身体を媒介として行われる。
第十九節
身体は他のあらゆる客観と違って、表象でありかつ意志
でもあるとして二重に意識されている。
第二十節
人間や動物の身体は意志の現象であり、身体の活動は意志
の働きに対応している。それゆえ身体の諸器官は欲望や
性格に対応している。
第二十一節
身体を介して知られている意志は、全自然の内奥の本質を
認識する鍵である。意志は物自体であり、盲目的に作用す
るすべての自然力のうちに現象する。
第二十二節
従来意志という概念は力という概念に包括されていたが、
われわれはこれを逆にして、自然の中のあらゆる力を
意志と考える。
第二十三節
意志は現象の形式から自由である。意志は動物の本能、
植物の運動、無機的自然界のあらゆる力のうちに盲目
的に活動している。意志の活動に動機や認識は必要で
はない。
第二十四節
どんなに究明しても自然の根源力は「隠れた特性」と
して残り、究明不可能である。しかしわれわれの哲学
はこの根源力のうちに人間や動物の意志と同じものを
類推する。スピノザ、アウグスティヌス、オイラーの
自然観。
第二十五節
意志はいかなる微小な個物の中にも分割されずに全体
として存在している。小さな一個物の研究を通じ宇宙
全体を知ることができる。意志の客観化の段階はプラ
トンのイデアにあたる。
第二十六節
合法則的な無機的自然界から、法則を欠いた人間の個
性に至るまで、意志の客観化には段階がある。自然の
根源諸力が発動する仕方と条件は、自然法則のうちに
言いつくされるが、根源諸力そのものは、原因と結果
の鎖の外にある。マルブランシュの機会因説。
第二十七節
元来意志は一つであるから、意志の現象と現象の間に
も親和性や同族性が認められる。しかし意志は高い客
観化を目指して努力するので、現象界はいたるところ
意志が低位のイデアを征服し、物質を奪取しようとす
る闘争の場となる。有機体は半ばは死んでいるとする
ヤーコブ・ベーメの説。認識は動物において個体保存
の道具として現われる。認識の出現とともに表象とし
ての世界が現われ、本能の確実性は休止し、人間にお
ける理性の出現とともに、この確実性は完全に失われ
る。
第二十八節
意志の現象は段階系列をなし、「自然の合意」によって
無意識のうちに相互に一致し合う合目的性をそなえて
いる。叡智的性格と経験的性格からの類比。意志は時
間の規定の外にあるから、時間的に早いイデアが後か
ら出現する遅いイデアに自分を合わせるという自然の
先慮さえ成り立つ。自然の合目的性を証明する昆虫や
動物の本能の実例。
第二十九節
意志はいかなる目標も限界もない。
意志は終わるところを知らぬ努力である。


第三巻 表象としての世界の第二考察
--根拠の原理に依存しない表象、すなわちプラトンの
イデア、芸術の客観--

第三十節
意志の客体性の各段階がプラトンのイデアにあたる。
個別の事物はイデアの模像であり、無数に存在し、た
えず生滅しているが、イデアはいかなる数多性も、い
かなる変化も知らない。
第三十一節
カントとプラトンの教えの内的意味と目標とは完全に
一致している。
第三十二節
プラトンのイデアは表象の形式下にあるという一点に
おいてカントの物自体と相違する。
第三十三節
認識は通常、意志に奉仕しているが、頭が身体の上に
のっている人間の場合だけ、認識が意志への奉仕から
脱却する特別の事例がありうる。
第三十四節
永遠の形相たるイデアを認識するには、人は個体である
ことをやめ、ただひたすら直観し、意志を脱した純粋な
認識主観であらねばならない。
第三十五節
イデアのみが本質的で、現象は見せかけの夢幻的存在で
しかない。それゆえ歴史や時代が究極の目的をそなえ、
計画と発展を蔵しているというような考え方はそもそも
間違いである。
第三十六節
イデアを認識する方法は芸術であり、天才の業である。
天才性とは客観性であり、純粋な観照の能力である。
天才性と想像力。天才と普通人。インスピレーションに
ついて。天才的な人は数学を嫌悪する。天才的な人は
怜悧ではなく、とかく無分別である。天才と狂気。
狂気の本質に関する諸考察。
第三十七節
普通人は天才の眼を借りてイデアを認識する。
第三十八節
対象がイデアにまで高められるという客観的要素と、人
間が意志をもたない純粋な認識主観にまで高められると
いう主観的要素と、この二つの美的要素が同時に出現し
たときにはじめてイデアは把握される。十七世紀オラン
ダ絵画の静物画。ロイスダールの風景画。回想の中の
個物の直観。光はもっとも喜ばしいものであり、直観的
認識のための条件である。ものが水に映ったときの美しさ。
第三十九節
崇高感について
第四十節
魅惑的なものについて。
第四十一節
美と崇高との区別。人間がもっとも美しく、人間の本質
の顕現が芸術の最高目標であるが、いかなる事物にも、
無形なものにも、無機的なものにも、人工物にさえ美は
ある。自然物と人工物のイデアに関するプラトンの見解。
第四十二節
イデア把握の主観的側面から客観的側面へしだいに順を
追って、以下各芸術を検討していきたい。
第四十三節
建築美術と水道美術について
第四十四節
造園美術、風景画、静物画、動物画、動物彫刻について。
第四十五節
人間の美しさと自然の模倣について。優美さをめぐって。
第四十六節
ラオコーン論
第四十七節
美と優美とは彫刻の主たる対象である。
第四十八節
歴史が画について
第四十九節
イデアと概念との相違。芸術家の眼の前に浮かんでいるの
は概念ではなく、イデアである。不純な芸術家たちは概念
を起点とする。
第五十節
造形芸術における概念、すなわち寓意について。象徴、標
章について。詩文芸における寓意について。
第五十一節
詩について。詩と歴史。昔の偉大な歴史家は詩人である。
伝記、ことに自伝は歴史書よりも価値がある。自伝と手紙
とではどちらが多く嘘を含んでいるか。伝記と国民史との
関係。抒情詩ないしは歌謡について。小説、叙事詩、戯曲
をめぐって。詩芸術の最高峰としての悲劇。悲劇の三つの
分類。
第五十二節
音楽について


第四巻 意志としての世界の第二考察
--自己認識に達したときの生きんとする意志の肯定ならび
に否定--


第五十三節
哲学とは行為を指図したり義務を命じたりするものではな
いし、歴史を語ってそれを哲学であると考えるべきもので
もない。
第五十四節
死と生殖はともに生きんとする意志に属し、個体は滅びて
も全自然の意志は不滅である。現在のみが生きることの形
式であり、過去や未来は概念であり、幻影にすぎない。死
の恐怖は錯覚である。
第五十五節
人間の個々の行為、すなわち経験的性格に自由はなく、経
験的性格は自由なる意志、すなわち叡智的性格によって決
定づけられている。
第五十六節
意志は究極の目的を欠いた無限の努力であるから、すべて
の生は限界を知らない苦悩である。意識が向上するに従って
苦悩も増し、人間に至って苦悩は最高度に達する。
第五十七節
人間の生は苦悩と退屈の間を往復している。苦悩の量は確
定されているというのに、人間は外的原因のうちに苦悩の
言い逃れを見つけようとしたがる。
第五十八節
われわれに与えられているものは欠乏や困窮だけで、幸福
とは一時の満足にすぎない。幸福それ自体を描いた文学は
存在しない。最大多数の人間の一生はあわれなほど内容空
虚で、気晴らしのため彼らは信仰という各種の迷信を作り
出した。
第五十九節
人間界は偶然と誤謬の国であり、個々の生涯は苦難の歴史
である。しかし神に救いを求めるのは無駄であり、地上に
救いがないというこのことこそが常態である。人間はつね
に自分みずからに立ち還るよりほか仕方がない。
第六十節
性行為とは生きんとする意志を個体の生死を超えて肯定す
ることであり、ここではじめて個体は全自然の生命に所有
される。
第六十一節
意志は自分の内面においてのみ発見され、一方自分以外の
すべては表象のうちにのみある。意志と表象のこの規定か
ら人間のエゴイズムの根拠が説明できる。
第六十二節
正義と不正について。国家ならびに法の起源。刑法について。
第六十三節
マーヤーのヴェールに囚われず「個体化の原理」を突き
破って見ている者は、加害者と被害者との差異を超越した
ところに「永遠の正義」を見出す。それはヴェーダの
ウパニシャッドの定式となった大格語 tat tvam asi
ならびに輪廻の神話に通じるものがある。
第六十四節
並外れた精神力をそなえた悪人と、巨大な国家的不正に
抗して刑死する反逆者と、--人間本性の二つの注目すべ
き特徴。
第六十五節
真、善、美という単なる言葉の背後に身を隠してはなら
ないこと。善は相対概念である。
第六十六節
徳は教えられるものではなく、学んで得られるものでも
ない。徳の証しはひとえに行為にのみある。通例「個体化
の原理」に仕切られ、自分と他人との間には溝がある。
エゴイストの場合この溝は大きく、自発的な正義はこれか
ら解放され、さらに積極的な好意、慈善、人類愛へ向かう。
第六十七節
他人の苦しみと自分の苦しみとの同一視こそが愛である。
愛はしたがって共苦、すなわち同情である。人間が泣く
のは苦痛のせいではなく、苦痛の想像力のせいである。
喪にある人が泣くのは人類の運命に対する想像力、すなわ
ち同情(慈悲)である。
第六十八節
真の認識に達した者は禁欲、苦行を通じて生きんとする
意志を否定し、内心の平安と明澄を獲得する。キリスト
教の聖徒もインドの聖者も教義においては異なるが、行
状振舞いにおいて、内的な回心において唯一同一である。
普通人は認識によってではなく、苦悩の実際経験を通じ
て解脱に近づく。すべての苦悩には人を神聖にする力が
ある。
第六十九節
意志を廃絶するのは認識によってしかなし得ず、自殺は
意志の肯定の一現象である。自殺は個別の現象を破壊す
るのみで、意志の否定にはならず、真の救いから人を遠
ざける。ただし禁欲による自発的な餓死という一種特別
の例外がある。
第七十節
完全に必然性に支配されている現象界の中へ意志の自由
が出現するという矛盾を解く鍵は、自由が意志から生じ
るのではなしに、認識の転換に由来することにある。
キリスト教の恩寵の働きもまたここにある。アウグス
ティヌスからルターを経たキリスト教の純粋な精神は、
わたしの教説とも内的に一致している。
第七十一節
いかなる無もなにか他のあるものとの関係において考え
られる欠如的無であり、記号の交換が可能である。
意志の完全な否定に到達した人にとっては、われわれが
存在すると考えているものがじつは無であり、かの無
こそじつは存在するものである。彼はいっさいの認識
を超えて、主観も客観も存在しない地点に立つ。

panse280
posted at 21:53

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