2008年01月26日
恁麼(いんも)
道元1200-1253
dougen
(3)「正法眼蔵」(27)
<恁麼(いんも)>
道元43歳
”いんも”の意味は、「このような」とか
「このとうり」という意味だが、道元は最高の
智慧、つまり「さとり」という意味で使って
いる。(「直ちに無上菩提に趣(おもむく)く、
しばらくこれを恁麼といふ」)
「智は、自己発見するのであり、人から学び取る
ものではなく、自分が活(はた)らかせるもので
はない。しかし智は自ずと智を受け伝え、智は
自ずと智を求めるのである。」
「智無きは疑い怪しみ、即ち永く失う」という
道あり。
(「法華経」薬草喩品)
「誰が無智であるということもない、有智も無智
も遍界の余物であるわけがないが、遍界において
は、すべては平等である、・・」
「一物といえどもすべてはかならず「なのもの」
であるほかはないのだと了解せねばならない。
この「なにもの」は疑いの言葉ではない、疑い
が来るのも「そのようなものが来た」である。
恁麼来である。」
(「正法眼蔵1」(石井訳、恁麼より)
dougen
(3)「正法眼蔵」(27)
<恁麼(いんも)>
道元43歳
”いんも”の意味は、「このような」とか
「このとうり」という意味だが、道元は最高の
智慧、つまり「さとり」という意味で使って
いる。(「直ちに無上菩提に趣(おもむく)く、
しばらくこれを恁麼といふ」)
「智は、自己発見するのであり、人から学び取る
ものではなく、自分が活(はた)らかせるもので
はない。しかし智は自ずと智を受け伝え、智は
自ずと智を求めるのである。」
「智無きは疑い怪しみ、即ち永く失う」という
道あり。
(「法華経」薬草喩品)
「誰が無智であるということもない、有智も無智
も遍界の余物であるわけがないが、遍界において
は、すべては平等である、・・」
「一物といえどもすべてはかならず「なのもの」
であるほかはないのだと了解せねばならない。
この「なにもの」は疑いの言葉ではない、疑い
が来るのも「そのようなものが来た」である。
恁麼来である。」
(「正法眼蔵1」(石井訳、恁麼より)