2007年05月02日

大拙の十八願解釈

吉本隆明1924-
takaaki yoshimoto

「親鸞復興」(12)

<鈴木大拙>(2)
「(大拙は第十八願にたいして)
一生懸命信仰して、言葉でいえば「至心に
信楽して」という状態は、大拙のいう、物
と心とが二元的に分かれていない状態に、
つまり悟りの状態にちかい状態に入ること
だと言うのです。大拙はそういう解釈のし
かたを十八願にたいしてやっています。
・・・
この理解のしかたは、一口にいいますと、
浄土教のかなめである十八願を、禅宗的に
理解したしかただとぼくにはおもわれます。
ぼくはそういうふうに十八願を理解して
いません。」

吉本氏は、大拙の十八願解釈を、悟りの
状態を前提にしていることに異議をとなえて
いるのですが、それは<悟り>についての
解釈の違いだとおもわれます。わたしは、
吉本氏と大拙の第十八願解釈は同じように
思われます。

参考:<悟り>
「悟りとは、問いと自分が一体化することに
よって、問う者が問題を解こうと努めなくと
も解決がその一体性から、おのずから生まれ
てくる状態である。」(大拙)
「”悟りは人がその全心全体を消耗しつくし
たと思う時に、不意に来るものである”
悟りとは、決してクソ坊主が恐れ崇めるよう
なものではない。ただ、「全心全体を消耗」
した証なのである。」(大拙)


注:第十八願:真心をこめて弥陀の誓願を
信じて、念仏を十遍でもいいから称えたら、
かならず浄土に往生することができる。

panse280
posted at 23:15

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