2006年09月17日

親鸞ー1

鈴木大拙1870-1966
daisetsu suzuki

「日本的霊性」(18)


<親鸞>(1)
「親鸞はお寺を作らなかった。
・・・
大きな屋根の下から漏れ出る念仏には虚偽が多く、
空念仏の合唱には弥陀は耳をかさぬ。
そこには一般があるが特殊はない。そうして特殊
(一人)が本願の対象である。
・・・
今日の本願寺の如きものは祖聖の志を相去ること
実に幾千万由旬(ゆじゅん)である。
・・・
特に親鸞聖人を取り上げて日本的霊性に目覚めた
最初の人であると言いたいのは、彼が流竄(りゅうざん)
の身となって辺鄙(へんぴ)と言われる北地へ
行って、そこで大地に親しんでいる人と起居を共にして
、つぶさに大地の経験をみずからの身の上に味わった
からである。
日本的霊性なるものは、極めて具体的で現実的で
個格的で「われ一人」的である。
この事実が直覚せられて初めて日本的宗教意識の
原理が確立するのである。」


注:由旬(ゆじゅん)
〔梵 yojana〕古代インドでの距離の一単位。帝王の
軍隊が一日に進む距離といわれ、約10キロメートル、
約15キロメートルなど諸説ある。


panse280
posted at 18:49

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