2006年08月27日

朝顔や つるべとられて もらひ水

鈴木大拙1870-1966
daisetsu suzuki

「禅」(26)


「朝顔や つるべとられて もらひ水」
(加賀の千代女)

6月の朝、女が井戸に水をくみにきた。
朝顔の蔓が桶にからみついていた。
あまりの美しさに、桶から蔓を外さないで
隣家へ水をもらいに走った。

「彼女がいかに深く、いかに徹底して、この世の
ものならぬ花の美しさに打たれたかは、彼女が
手桶から蔓をはずそうとしなかった事実によって
うなずかれる。
彼女は、容易に花をいためずに蔓をはずす
ことができたのだった。しかし、美と一体の感
が彼女の心をすっかり奪ってしまっていたので、
この考えは浮かんではこなかった。
天に属するものを、俗世界のいとなみの匂いの
するもので汚そうなどとは、彼女は毛頭考え
なかった。
彼女は自分の用事を考えないわけにはいかなかった。
隣家へ朝の仕事に必要な水をもらいに行く--
これが彼女にできた唯一のことであったろう。」


「心理学的に言えば、俳人千代女は、美の瞑想から
覚めるのに時間を必要とした。しかし形而上学的に
言うならば、彼女が同一化に没入したのと分別に
目覚めたのとは同時である。
そしてこの同時性は、”絶対の現在”に成就する。
それは”如”の”一刹那”である。
これが、禅の哲学である。」


補記:「如」
空(くう)が一切を否定、あるいは拒絶するものと
すれば如は、一切を受け入れ、一切をうけがうもの
である。如とは物事をあるがままに見ることである。

panse280
posted at 19:32

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