2006年08月26日
禅の存在論
鈴木大拙1870-1966
daisetsu suzuki
「禅」(25)
<禅の存在論>
「AをAであらしめるためには、非Aが必要で
あるが、これは、Aの中に非Aがあることを
意味する。
AがA自体であろうとする時には、それはすでに
それ自体の外にある--つまり非Aである。
もしAがその中にそれ自体でないものを持って
いないならば、AをAであらしめるために、
Aから非Aが出てくることはできない。
Aはこの矛盾ゆえに、Aである。
そしてこの矛盾は、われわれが論理化を行なう
時にはじめて出てくる。
われわれが”如”の中にいるかぎりは、何の矛盾
も存しない。
禅は矛盾を知らない。」
補記:
つまり、あらゆる存在は固では成立しない、
ということです。
「自分とは何か」という問いを自分の中に
求める限り、永遠に答えはありません。
自分がどこにいて、何を食べ、誰とどんな
会話をし、誰を憎み、誰を愛し、どんな
仕事をし、・・・・・、それが自分です。
daisetsu suzuki
「禅」(25)
<禅の存在論>
「AをAであらしめるためには、非Aが必要で
あるが、これは、Aの中に非Aがあることを
意味する。
AがA自体であろうとする時には、それはすでに
それ自体の外にある--つまり非Aである。
もしAがその中にそれ自体でないものを持って
いないならば、AをAであらしめるために、
Aから非Aが出てくることはできない。
Aはこの矛盾ゆえに、Aである。
そしてこの矛盾は、われわれが論理化を行なう
時にはじめて出てくる。
われわれが”如”の中にいるかぎりは、何の矛盾
も存しない。
禅は矛盾を知らない。」
補記:
つまり、あらゆる存在は固では成立しない、
ということです。
「自分とは何か」という問いを自分の中に
求める限り、永遠に答えはありません。
自分がどこにいて、何を食べ、誰とどんな
会話をし、誰を憎み、誰を愛し、どんな
仕事をし、・・・・・、それが自分です。