2006年06月08日
死について
吉本隆明1924-
takaaki yoshimoto
「老いの超え方」(10)完
<死について>
ボーヴォワールは「老い」という著書の中で、
「自分が死にたいする悲しみをいくぶんか
和らげられるようになったのは、死を世界に
おける不在だと考えられるようになって
からだといっています。
たとえば自分たちは日々不在を体験している。
かって友達であった人が亡くなっている時、
かって父親や母親であったとか肉親であった人
が亡くなって、今や不在である。
またかって行った土地、もう二度とゆくことの
ない土地も自分にとって不在である。
このように考えてゆくと、人間の存在が世界に
おける不在を絶えず体験しながら生きている
ようなものだ。
そして不在がすべてをおおい尽くした時、
それが死なんだと考えられるようになって、
自分は「死」とか「老い」とかに対する恐怖や
悲しみを和らげられるようになったと言って
います。」
takaaki yoshimoto
「老いの超え方」(10)完
<死について>
ボーヴォワールは「老い」という著書の中で、
「自分が死にたいする悲しみをいくぶんか
和らげられるようになったのは、死を世界に
おける不在だと考えられるようになって
からだといっています。
たとえば自分たちは日々不在を体験している。
かって友達であった人が亡くなっている時、
かって父親や母親であったとか肉親であった人
が亡くなって、今や不在である。
またかって行った土地、もう二度とゆくことの
ない土地も自分にとって不在である。
このように考えてゆくと、人間の存在が世界に
おける不在を絶えず体験しながら生きている
ようなものだ。
そして不在がすべてをおおい尽くした時、
それが死なんだと考えられるようになって、
自分は「死」とか「老い」とかに対する恐怖や
悲しみを和らげられるようになったと言って
います。」