2004年05月01日

川端康成

川端康成1899-1972
yasunari kawabata

「美しい日本の私」
講談社現代新書

「私の作品を虚無という評価がありますが、
西洋流のニヒリズムといふ言葉はあてはま
りません。心の根本がちがふと思っています。
道元の四季の歌も「本来ノ面目」と題されて
をりますが、四季の美を歌ひながら、実は
強く禅い通じたものでせう。」(川端)


美しい日本の私―その序説


川端康成の世界

「川端さんが名文家であることは正に世評のとほりだが
つひに文体を持たぬ小説家であるといふのは、私の意見で
ある。なぜなら小説家における文体とは、世界解釈の意志
であり鍵なのである。混沌と不安に対処して、世界を整理
し、区画し、せまい造型の枠内へ持ち込んで来るためには、
作家の道具とては文体しかない。・・・川端さんの傑作の
やうに、完璧であって、しかも世界解釈の意志を完全に放
棄した芸術作品とは、どういふものなのであるか?」

「感受性は強大になればなるほど、世界の混沌を自分の
内に受容しなければならなくなるからだ。これが川端氏の
受難の形式だった。しかしそのときもし、感受性が救ひを
求めて、知力にすがらうとしたらどうだろう。知力は感受
性に論理と知的法則とを与へ、感受性が論理的に追ひつめ
られる極限まで連れて行き、つまり作者を地獄へ連れて行
くのである。・・小説”禽獣”で作者ののぞいた地獄は正
にこれである。・・・このとき、川端さんのうちに、人生
における確信が生まれたものと思われる。・・情念が情念
それ自体の、感性が感性それ自体の、官能が官能それ自体
の法則を保持し、それに止まるかぎり、破滅は決して訪れ
ないといふ確信である。・・かうして川端さんは、他人を
放任する前に自分を放任することが、人生の極意だと気づ
かれた。・・・川端さんが文体をもたない小説家であると
いふことは氏の宿命であり、世界解釈の意志の欠如は、お
そらくただの欠如ではなくて、氏自身が積極的に放棄した
ものなのである。・・・氏のエロティシズムは、氏自身の
官能の発露といふよりは、官能の本体つまり生命に対する
永遠に論理的帰結を辿らぬ、不断の接触、あるひは接触の
試みと云ったはうが近い。」

(以上二文は三島由紀夫からの引用)

「川端氏の胸底は、実につめたく、がらんどうなのであって
実に珍重すべきがらんどうだと僕はいつも思っている。氏は
ほとんど自分では生きていない。他人の生命が、このがらん
どうの中を、一種の光をあげて通過する。だから氏は生きて
いる。これが氏のなまなましい抒情の生まれるゆえんなので
ある。作家の虚無感といふものは、ここまで来ないうちは、
本物とはいへない・・・」

(以上、小林秀雄からの引用)

panse280
posted at 23:40

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