2004年06月29日
アートの終焉、そして利休への道(2)
鈴木大拙1870-1966
zaisetsu suzuki
「アートの終焉、そして利休への道」(2)
<昨日の続き>
トマソンは、日本的なものであり、その
精神は”利休への道”につながった。
では、利休への道とは、具体的にいかなる
道であろうか。
禅と日本文化
zaisetsu suzuki
「アートの終焉、そして利休への道」(2)
<昨日の続き>
トマソンは、日本的なものであり、その
精神は”利休への道”につながった。
では、利休への道とは、具体的にいかなる
道であろうか。
禅と日本文化
<「貧困」の信仰とは>
「貧しいということ、すなわち世間的な事物、
富・力・名に頼っていないこと、しかも、その人
の心中には、なにか時代や社会的地位を超えた、
最高の価値をもつものの存在を感じること、これが
”わび”を本質的に組成するものである。・・・・
「貧困」の信仰、おそらくは日本のような国には
極めてふさわしい道である。
西欧の贅沢品や生活の慰安物がわが国を侵す
ようになっても、なお、”わび”道に対するわれわれ
の憧憬の念には根絶し難いものがある。
知的生活の場合でも、観念の豊富化を求めない
し、また、派手でもったいぶった思想の配列や
哲学大系のたてかたも求めない。
神秘的な「自然」の思索に心を安んじて静居し、
そして環境全体と同化して、それで満足すること
の方が、われわれ、少なくともわれわれのうちの
ある人々にとって、心ゆくまで楽しい事柄なので
ある。」
<利休アートとは>
「美とはかならずしも形の完全を指していうの
ではない。この不完全どころか醜というべき
形のなかに、美を体現することが日本の美術家
の得意の妙技の一つである。
この不完全の美に古色や古拙味(原始的無骨さ)
が伴えば、日本の鑑賞家が賞美するところの
”さび”があらわれる。」
”さび”は、利休アートである。
それは「貧困」の信仰である。
そしてそれは、地球に優しい美学である。
禅と芸術は一体である。
「貧」には、無限の豊饒がある。
「貧」の表現こそ、来るべきアートであるだろう。
果たして、欧米が「貧」という最高の価値に
気づくのは、何百年後になるのだろうか。
「貧しいということ、すなわち世間的な事物、
富・力・名に頼っていないこと、しかも、その人
の心中には、なにか時代や社会的地位を超えた、
最高の価値をもつものの存在を感じること、これが
”わび”を本質的に組成するものである。・・・・
「貧困」の信仰、おそらくは日本のような国には
極めてふさわしい道である。
西欧の贅沢品や生活の慰安物がわが国を侵す
ようになっても、なお、”わび”道に対するわれわれ
の憧憬の念には根絶し難いものがある。
知的生活の場合でも、観念の豊富化を求めない
し、また、派手でもったいぶった思想の配列や
哲学大系のたてかたも求めない。
神秘的な「自然」の思索に心を安んじて静居し、
そして環境全体と同化して、それで満足すること
の方が、われわれ、少なくともわれわれのうちの
ある人々にとって、心ゆくまで楽しい事柄なので
ある。」
<利休アートとは>
「美とはかならずしも形の完全を指していうの
ではない。この不完全どころか醜というべき
形のなかに、美を体現することが日本の美術家
の得意の妙技の一つである。
この不完全の美に古色や古拙味(原始的無骨さ)
が伴えば、日本の鑑賞家が賞美するところの
”さび”があらわれる。」
”さび”は、利休アートである。
それは「貧困」の信仰である。
そしてそれは、地球に優しい美学である。
禅と芸術は一体である。
「貧」には、無限の豊饒がある。
「貧」の表現こそ、来るべきアートであるだろう。
果たして、欧米が「貧」という最高の価値に
気づくのは、何百年後になるのだろうか。