2004年06月26日

アートの未来は?

17ff1972.gif赤瀬川原平1937-
genpei akasegawa

「脱芸術的考察」
(芸術原論)

アートの未来が見えますか?

「1963年の「読売アンデパンダン展」を前にして、
私はすでに自分の手で作る作品価値というもの
に絶望していた。・・・要するに画家としての私は、
描くものがないということを描きたかったのである。」

その対象が”千円札”だった。そして、警察との交際
が始まった。直感の行為を、地裁、高裁、最高裁と
いう場で、説明しなければならない。

「私が芸術のことをはじめて考えたのは警視庁の
地下室だった。」


芸術原論

超芸術トマソン

芸術が芸術だけをテーマにするようになり、形態も
オブジェからハプニングへ、そして芸術は蒸発し
作家の前から消えていった。
”千円札”は、「絵をえがく本能をもって生きている
画家の筆先から芸術が逃げてしまったことの
報告である。・・・つまり、そういうことだったんです。」

と刑事に呟いた、警視庁地下取り調べ室、六日目の
ことである。

「絵具を垂らしたポロックの絵は、その垂らした
ところから芸術が外に抜け出ていったことの記
念碑である。
キャンバスにナイフの切れ目を入れたフォンタナ
の絵は、その切れ目から芸術が抜け出ていった
記念碑である。」

「経済はその形骸(芸術)を買うことによって、
形骸に価値を与えてしまった。そこから現代
芸術の作品の凋落がはじまる。

商品としての形骸が再生産されていったの
である。・・・

その結果、芸術の名の下に抱える空虚が増大し、
それをカバーするための舌先が三寸、五寸と
伸び続けていったのである。・・・芸術の名を
冠する世界は、ファッションの構造の中へ逃げ
込んでいったのである。・・・

フォンタナの絵は誰でも描ける。・・・(そこに)
技能のオリジナリティーを見ようとするのは
ナンセンスである。
それはフォンタナの絵から芸術が抜け出ること
で輝やいたその芸術を抹消することになるわけ
で、このことは概念に向かう現代芸術の全てに
共通している。

それでもフォンタナの絵はオリジナルとして売り
買いされている。自分でキャンバスを切り裂けば
事足りるところを、あえてフォンタナの切り裂いた
キャンバスを買うというのは、その形骸にかって
輝やいた芸術を買うことの代用として、フォンタナ
という記号を買っているのだ。

そこに経済の滑稽が含まれている。
そうやってフォンタナの絵も芸術から形骸を経て
ファッションへと移行するのだった。」

芸術はかくして、経済の滑稽に覆われた。

最近の若者は趣味にファッションを挙げるものが多い。
ブランドも記号の売買である。

コンセプトの遊びの中から、超芸術トマソンが生まれる。

そこで、何故、トマソンかというと、「一般空間に
あらわれるトマソン物件の輝きにくらべて、芸術
内芸術作品の光はあまりにも微弱なのだ。・・・
トマソン物件に心を打たれて、そこから新しい啓示
を受けることで、それはほとんど芸術作品としての
該質を受け継いでいる。」

トマソンは、蒸発してしまった現代芸術の一つの
変異だが、次世代芸術へのもっとも有望な変異である。

トマソンは、あまりにも日本的な感受性、つまり
ワビ、サビに支えられている。

「万一破裂をまぬがれた地球が丸ごと日本になり
おおせたとき、人々はパリでもロンドンでもニュー
ヨークでも、トマソンの前に立ち止まり、しゃがみ
こんで壺庭を愛で、ハリガミに頬笑み返すことに
なるのだろうか。」

トマソンは、千利休+芭蕉の世界であり、芸術という
言葉のない世界へのスパイラル転位である。
千利休や芭蕉の時代に、次世代創作術のヒントが
あるのかもしれない。


「人類の才能は、その総量が一定であると考えられる。
・・・一時期芸術世界に集結していた人類の創造力は、
いまはそこを出て商品世界(パソコン、ビデオ、・・・)に
集結している。・・・これだけ旺盛な創造力を見ていると、
芸術世界の衰退もきわめてバランスのとれた現象なの
かと思われてくる。」


panse280
posted at 17:22

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