2017年01月11日

日本語の危機

「日本語を作った男」(3)

山口謠司 youji yamaguchi 1963-

2016.6.7 第2刷発行(株式会社集英社)

<日本語の危機>
斉藤緑雨、漱石、万年は同級生である。

斉藤緑雨は16歳のとき、仮名垣魯文(1829-1894)
の門人となる。
当時、仮名垣魯文は東京メディア界のトップスター
であった。

「汝士分の面目をおもわば、かの流行言語というを
耳にすとも、決して口にする勿れ」(仮名垣魯文)
当時、標準語も、テレビもなく、新聞には、上記の
ような調子の文章が載っている、町には方言が飛び
交っていた。

万年が東大に入った1885年、森有礼が文部大臣
になった。森は英語を日本の公用語にしようと
唱えた。
当時、人口は3000万人、唯一の大学である東大
の学生は1000人、大学の授業はすべて英語で
なされていた。

同志社大学をつくった新島襄や、内村鑑三は日本語
を話すことはできても、ほとんど日本語で書かれた
ものを読解することができず、英訳本か、本を
読んでもらうことで理解していた。
内村鑑三は、講演で「あのような文学(源氏物語)
はわれわれのなかから根こそぎ絶やしたい。」
といって、江戸以前の文化を恥辱に満ちた思いで
見ていた。

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