フルシチョフ1894-1971 77歳
「人間臨終図巻(3)」(143)
山田風太郎 1922-2001
fuutaro yamada
2001.05.15 初版(徳間文庫)
<フルシチョフ1894-1971 77歳>
1953年、スターリンの死後、党の第一書記に
なったフルシチョフは非スターリン化を推進した。
彼に不満を持つ中央委員会幹部は、フルシチョフを
解任した。
その後フルシチョフは回想録をアメリカで出版した
が、中央委員会はこれを偽造文書であると声明を出し
、フルシチョフにも同じ声明を出すことを強要したが
ルシチョフはそれを拒否した。
かって彼が昇進させてやったキリレンコはフルシチョフ
を罵った。
「君(キリレンコ)は私の恩給をやめることも出来る。
そうしたら私(フルシチョフ)は乞食になって国中を
まわろうじゃないか。」
フルシチョフが死亡したとき、「プラウダ」は死亡広告
蘭に、「前中央委員会第一書記、個人恩給生活者N・S・
フルシチョフ」と書き、その死を悼む1行のコメントも
つけ加えなかった。
それまでのソ連歴代最高指導者で、存命中に解任された
のは彼だけであり、また死後クレムリン墓地でなく
一般庶民の墓地に入れられたのも彼だけであった。
山田風太郎 1922-2001
fuutaro yamada
2001.05.15 初版(徳間文庫)
<フルシチョフ1894-1971 77歳>
1953年、スターリンの死後、党の第一書記に
なったフルシチョフは非スターリン化を推進した。
彼に不満を持つ中央委員会幹部は、フルシチョフを
解任した。
その後フルシチョフは回想録をアメリカで出版した
が、中央委員会はこれを偽造文書であると声明を出し
、フルシチョフにも同じ声明を出すことを強要したが
ルシチョフはそれを拒否した。
かって彼が昇進させてやったキリレンコはフルシチョフ
を罵った。
「君(キリレンコ)は私の恩給をやめることも出来る。
そうしたら私(フルシチョフ)は乞食になって国中を
まわろうじゃないか。」
フルシチョフが死亡したとき、「プラウダ」は死亡広告
蘭に、「前中央委員会第一書記、個人恩給生活者N・S・
フルシチョフ」と書き、その死を悼む1行のコメントも
つけ加えなかった。
それまでのソ連歴代最高指導者で、存命中に解任された
のは彼だけであり、また死後クレムリン墓地でなく
一般庶民の墓地に入れられたのも彼だけであった。