芥川龍之介、自殺の泣ける話
ショーペンハウアー 1788-1860
arthur schopenhauer
「ショウペンハウアー全集(3)」(66)
--「意志と表象としての世界」--
<第四巻 意志としての世界の第二考察>
余談:芥川龍之介、自殺の泣ける話
「芥川の事ども 菊池寛」--芥川の自殺について--
「・・・、二、三年来、彼は世俗的な苦労が絶えなかった。
我々の中で、一番高踏的で、世塵を避けようとする芥川に、
一番世俗的な苦労がつきまとっていったのは、何という
皮肉だろう。
その一の例を言えば興文社から出した「近代日本文芸読本」
に関してである。この読本は、凝り性の芥川が、心血を注い
で編集したもので、あらゆる文人に不平なからしめんために、
出来るだけ多くの人の作品を収録した。芥川としては、何人
にも敬意を失せざらんとする彼の配慮であったのだ。
そのため、収録された作者数は、百二、三十人にも上った。
しかし、あまりに凝り過ぎ、あまりに文芸的であったため、
たくさん売れなかった。
そして、その印税も編集を手伝った二、三子に分たれたので、
芥川としてはその労の十分の一の報酬も得られなかったくらい
である。
しかるに、何ぞや「芥川は、あの読本で儲けて書斎を建てた」
という妄説が生じた。中には、「我々貧乏な作家の作品を集めて、
一人で儲けるとはけしからん。」と、不平をこぼす作家まで生じた。
こうした妄説を芥川が、いかに気にしたか。
芥川としては、やり切れない噂に違いなかった。芥川は、堪ら
なかったと見え、「今後あの本の印税は全部文芸家協会に寄付
するようにしたい」と、私に言った。私は、そんなことを気に
することはない。文芸家協会に寄付などすればかえって、問題
を大きくするようなものだ。
そんなことは、全然無視するがいい。本は売れていないのだし、
君としてあんな労力を払っているのだもの、グズグズ言う奴
には言わして置けばいいと、私は口がすくなるほど、彼に言った。
・・・
私が、そう言えばその場は、承服していたようであったが、彼は
やっぱり最後に、三越の十円切手か何かを、各作家の許にもれ
なく贈ったらしい。私は、こんなにまで、こんなことを気にす
る芥川が悲しかった。だが、彼の潔癖性は、こうせずにはいら
れなかったのだ。
・・・
その上、家族関係の方にも、義兄の自殺、頼みにしていた夫人
の令弟の発病など、いろいろ不幸がつづいていた。
・・・
芥川と自分とは、十二、三年の交情である。一高時代に、芥川は
恒藤(つねとう)君ともっとも親しかった。・・・僕は芥川とは
交際しなかった。僕が芥川と交際し始めたのは、一高を出た以後
である。
・・・
芥川と、僕とは、趣味や性質も正反対で、また僕は芥川の趣味な
どに義理にも共鳴したような顔もせず、自分のやることで芥川の
気に入らぬこともたくさんあっただろうが、しかし十年間一度も
感情の阻隔を来したことはなかった。
・・・
僕のもっとも、遺憾に思うことは、芥川の死ぬ前に、一カ月以上
彼と会っていないことである。
この前も「文藝春秋座談会」の席上で二度会ったが、二度とも他
に人がありしみじみした話はしなかった。
その上、「小学生全集」があんなにゴタゴタを起し、芥川には
まったく気の毒で芥川と直面することが、少しきまり悪かったの
で、座談会が了った後も、僕は出席者を同車して送る必要もあり、
芥川と残って話す機会を作ろうとしなかった。
ただ万世橋の瓢亭で、座談会があったとき、私は自動車に乗ろう
としたとき、彼はチラリと僕の方を見たが、その眼には異様な光
があった。ああ、芥川は僕と話したいのだなと思ったが、
もう車がうごき出していたので、そのままになってしまった。
芥川は、そんなときあらわに希望を言う男ではないのだが、その
時の眼付きは僕ともっと残って話したい渇望があったように、
思われる。
僕はその眼付きが気になったが、前にも言った通り芥川に顔を
会わすのが、きまり悪いので、その当時用事はたいてい人を通
じて、済ませていた。
死後に分ったことだが、彼は七月の初旬に二度も、文藝春秋社
を訪ねてくれたのだ。二度とも、僕はいなかった。これも後で
分ったことだが、一度などは芥川はぼんやり応接室にしばらく
腰かけていたという。
しかも、当時社員の誰人も僕に芥川が来訪したことを知らして
くれないのだ。僕は、芥川が僕の不在中に来たときは、その翌
日には、きっと彼を訪ねることにしていたのだが、芥川の来訪
を全然知らなかった僕は、忙しさに取りまぎれて、とうとう彼
を訪ねなかったのである。
彼の死について、僕だけの遺憾事は、これである。
こうなってみると、瓢亭の前で、チラリと僕を見た彼の眼付き
は、一生涯僕にとって、悔恨の種になるだろうと思う。
・・・
作家としての彼が、文学史的にいかなる位置を占めるかは、公
平なる第三者の判断に委すとして、僕などでも次のことは言え
ると思う。
彼のごとき高い教養と秀れた趣味と、和漢洋の学問を備えた作
家は、今後絶無であろう。古き和漢の伝統および趣味と欧州の
学問趣味とを一身に備えた意味において、過渡期の日本におけ
る代表的な作家だろう。我々の次の時代においては、和漢の正
統な伝統と趣味とが文芸に現われることなどは絶無であろうから。
彼は、文学上の読書においては、当代その比がないと思う。
あの手記の中にあるマインレンデルについて、火葬場からの帰途、
恒藤君が僕に訊いた。
「君、マインレンデルというのを知っているか。」
「知らない。君は。」
「僕も知らないんだ、あれは人の名かしらん。」
山本有三、井汲清治、豊島與志雄の諸氏がいたが、誰も知らな
かった。あの手記を読んで、マインレンデルを知っていたもの
果たして幾人いただろう。
二、三日して恒藤君が来訪しての話では、独逸の哲学者で、
ショペンハウエルの影響を受け、厭世思想をいだき、結局自殺
が最良の道であることを鼓吹した学者だろうとの事だった。
芥川はいろいろの方面で、多くのマインレンデルを読んでいる
男に違いなかった。
数年前、ショオを読破してショオに傾倒し、ショオがいかなる
社会主義者よりもマルクスを理解していたことなどを感心して
いたから、社会科学の方面についての読書などもいい加減な
プロ文学者などよりも、もっと深いところまで進んでいたよう
に思う。
・・・
彼は、自分の周囲に一つの垣を張り廻していて、嫌な人間は決
してその垣から中へは、入れなかった。しかし、彼が信頼し何
らかの美点を認める人間には、かなり親切であった。そして、
よく面倒を見てやった。また、一度接近した人間は、いろいろ
迷惑をかけられながらも、容易には突き放さなかった。
皮肉で聡明ではあったが、実生活にはモラリストであり、親切
であった。彼が、もっと悪人であってくれたら、あんな下らな
いことにこだわらないで、はればれと生きて行っただろうと思う。
(「文藝春秋」1927(昭和2)年9月号)
arthur schopenhauer
「ショウペンハウアー全集(3)」(66)
--「意志と表象としての世界」--
<第四巻 意志としての世界の第二考察>
余談:芥川龍之介、自殺の泣ける話
「芥川の事ども 菊池寛」--芥川の自殺について--
「・・・、二、三年来、彼は世俗的な苦労が絶えなかった。
我々の中で、一番高踏的で、世塵を避けようとする芥川に、
一番世俗的な苦労がつきまとっていったのは、何という
皮肉だろう。
その一の例を言えば興文社から出した「近代日本文芸読本」
に関してである。この読本は、凝り性の芥川が、心血を注い
で編集したもので、あらゆる文人に不平なからしめんために、
出来るだけ多くの人の作品を収録した。芥川としては、何人
にも敬意を失せざらんとする彼の配慮であったのだ。
そのため、収録された作者数は、百二、三十人にも上った。
しかし、あまりに凝り過ぎ、あまりに文芸的であったため、
たくさん売れなかった。
そして、その印税も編集を手伝った二、三子に分たれたので、
芥川としてはその労の十分の一の報酬も得られなかったくらい
である。
しかるに、何ぞや「芥川は、あの読本で儲けて書斎を建てた」
という妄説が生じた。中には、「我々貧乏な作家の作品を集めて、
一人で儲けるとはけしからん。」と、不平をこぼす作家まで生じた。
こうした妄説を芥川が、いかに気にしたか。
芥川としては、やり切れない噂に違いなかった。芥川は、堪ら
なかったと見え、「今後あの本の印税は全部文芸家協会に寄付
するようにしたい」と、私に言った。私は、そんなことを気に
することはない。文芸家協会に寄付などすればかえって、問題
を大きくするようなものだ。
そんなことは、全然無視するがいい。本は売れていないのだし、
君としてあんな労力を払っているのだもの、グズグズ言う奴
には言わして置けばいいと、私は口がすくなるほど、彼に言った。
・・・
私が、そう言えばその場は、承服していたようであったが、彼は
やっぱり最後に、三越の十円切手か何かを、各作家の許にもれ
なく贈ったらしい。私は、こんなにまで、こんなことを気にす
る芥川が悲しかった。だが、彼の潔癖性は、こうせずにはいら
れなかったのだ。
・・・
その上、家族関係の方にも、義兄の自殺、頼みにしていた夫人
の令弟の発病など、いろいろ不幸がつづいていた。
・・・
芥川と自分とは、十二、三年の交情である。一高時代に、芥川は
恒藤(つねとう)君ともっとも親しかった。・・・僕は芥川とは
交際しなかった。僕が芥川と交際し始めたのは、一高を出た以後
である。
・・・
芥川と、僕とは、趣味や性質も正反対で、また僕は芥川の趣味な
どに義理にも共鳴したような顔もせず、自分のやることで芥川の
気に入らぬこともたくさんあっただろうが、しかし十年間一度も
感情の阻隔を来したことはなかった。
・・・
僕のもっとも、遺憾に思うことは、芥川の死ぬ前に、一カ月以上
彼と会っていないことである。
この前も「文藝春秋座談会」の席上で二度会ったが、二度とも他
に人がありしみじみした話はしなかった。
その上、「小学生全集」があんなにゴタゴタを起し、芥川には
まったく気の毒で芥川と直面することが、少しきまり悪かったの
で、座談会が了った後も、僕は出席者を同車して送る必要もあり、
芥川と残って話す機会を作ろうとしなかった。
ただ万世橋の瓢亭で、座談会があったとき、私は自動車に乗ろう
としたとき、彼はチラリと僕の方を見たが、その眼には異様な光
があった。ああ、芥川は僕と話したいのだなと思ったが、
もう車がうごき出していたので、そのままになってしまった。
芥川は、そんなときあらわに希望を言う男ではないのだが、その
時の眼付きは僕ともっと残って話したい渇望があったように、
思われる。
僕はその眼付きが気になったが、前にも言った通り芥川に顔を
会わすのが、きまり悪いので、その当時用事はたいてい人を通
じて、済ませていた。
死後に分ったことだが、彼は七月の初旬に二度も、文藝春秋社
を訪ねてくれたのだ。二度とも、僕はいなかった。これも後で
分ったことだが、一度などは芥川はぼんやり応接室にしばらく
腰かけていたという。
しかも、当時社員の誰人も僕に芥川が来訪したことを知らして
くれないのだ。僕は、芥川が僕の不在中に来たときは、その翌
日には、きっと彼を訪ねることにしていたのだが、芥川の来訪
を全然知らなかった僕は、忙しさに取りまぎれて、とうとう彼
を訪ねなかったのである。
彼の死について、僕だけの遺憾事は、これである。
こうなってみると、瓢亭の前で、チラリと僕を見た彼の眼付き
は、一生涯僕にとって、悔恨の種になるだろうと思う。
・・・
作家としての彼が、文学史的にいかなる位置を占めるかは、公
平なる第三者の判断に委すとして、僕などでも次のことは言え
ると思う。
彼のごとき高い教養と秀れた趣味と、和漢洋の学問を備えた作
家は、今後絶無であろう。古き和漢の伝統および趣味と欧州の
学問趣味とを一身に備えた意味において、過渡期の日本におけ
る代表的な作家だろう。我々の次の時代においては、和漢の正
統な伝統と趣味とが文芸に現われることなどは絶無であろうから。
彼は、文学上の読書においては、当代その比がないと思う。
あの手記の中にあるマインレンデルについて、火葬場からの帰途、
恒藤君が僕に訊いた。
「君、マインレンデルというのを知っているか。」
「知らない。君は。」
「僕も知らないんだ、あれは人の名かしらん。」
山本有三、井汲清治、豊島與志雄の諸氏がいたが、誰も知らな
かった。あの手記を読んで、マインレンデルを知っていたもの
果たして幾人いただろう。
二、三日して恒藤君が来訪しての話では、独逸の哲学者で、
ショペンハウエルの影響を受け、厭世思想をいだき、結局自殺
が最良の道であることを鼓吹した学者だろうとの事だった。
芥川はいろいろの方面で、多くのマインレンデルを読んでいる
男に違いなかった。
数年前、ショオを読破してショオに傾倒し、ショオがいかなる
社会主義者よりもマルクスを理解していたことなどを感心して
いたから、社会科学の方面についての読書などもいい加減な
プロ文学者などよりも、もっと深いところまで進んでいたよう
に思う。
・・・
彼は、自分の周囲に一つの垣を張り廻していて、嫌な人間は決
してその垣から中へは、入れなかった。しかし、彼が信頼し何
らかの美点を認める人間には、かなり親切であった。そして、
よく面倒を見てやった。また、一度接近した人間は、いろいろ
迷惑をかけられながらも、容易には突き放さなかった。
皮肉で聡明ではあったが、実生活にはモラリストであり、親切
であった。彼が、もっと悪人であってくれたら、あんな下らな
いことにこだわらないで、はればれと生きて行っただろうと思う。
(「文藝春秋」1927(昭和2)年9月号)