2004年12月24日

誤解されやすい極意

佚齋樗山子1659-1741
issai tyozanshi
(本名丹羽十郎右衛門忠明)

「猫の妙術」

山岡鉄舟は、門人に秘伝書を公開していたが、
「猫の妙術」だけは見せなかったそうです。
 
勝軒という人の家屋に一匹の大鼠が住みつきました。
この大鼠の強さは無類でどんな猫でも手におえない。
そんな時、鼠とりの名猫の話を聞き、早速、その猫
を借りて来ました。その猫は、見た目には普通の古
猫だった。


ところが…その古猫が部屋の中にノソノソと入った途
端、それまで我が物顔に振る舞っていた大鼠が隅の壁
の前にたたずんで、じっと動きません。
古猫は声も出さず、ノッタリノッタリと近寄ると無造
作に捕えてしまったのです。

<古猫いわく>
一つ、わざに頼ってはダメです。
技巧が尽きれば、どうにもなりますまい。小人は技巧
に走り、才覚に溺れる。

二つ、気合いを間違ってはいけない。
勢いの気合いは、洪水のときの水のようで、ある程度
流れ出してしまえば後が続かない。
これを「客気」といいます。
孟子がいう「洪然の気(こうぜんのき)」は、尽きる
ことのない気なのです。
これを「正気」といいます。
「客気」と「正気」を間違ってはいけない。

三つ、和の誤解
私心をはさんで和をなせば、気は濁って惰してしまう
ものだ。

<古猫の極意>

「それ剣術は、専ら人に勝つためにあらず。変に臨みて、
生死を明らかにする術なり、と。武士たる者は常に心を
養い、その術を修行しなければなりません。ゆえに、ま
ずは生死の理に徹し、不疑不惑、才覚・思慮を用いずに、
心気和平にして、静かに安らかで平常心であれば、変化
に応じることは自由自在となる。」

「無心無物といっても、空しいといったようなものでは
ない。心はもともと形もなければ、したがって物を蓄え
ることもできない。そこの僅かでも蓄えるものがあれば、
気もまたそこへ拠ろうとし、そうなれば豁達(かったつ)
自在に在ることはむつかしくなる。」

「我あるがゆえに敵があるのだ。我がなければ敵もある
まい。敵というのは、陰・陽・水・火と同様である。
およそ形あるものは、かならず対するものだ。己の心に
象(かたち)がなければ、当然、対するものもないわけ
で、争うこともない。」

「禅学だけではなく、聖人の心法から芸術の末に至るまで、
自得のところはすべて以心伝心である。教えるというの
は、己に有っても自ら見ることのできぬところを、指し
て知らしめるだけである。師から授かるのではない。
教えるのも易く、それを聞くのも易い。ただし、己にあ
るものを確実に見つけ、己のものとするのは難しい。
これを修行上の一眼目という。」


panse280
posted at 22:22

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